悩める僕らは素晴らしい

音楽、サブカル、ラジオ等について、経営的・定量的な視点から書いていきます。

進撃の巨人とエヴァの対比から思うこと

 

はじめに

 進撃の巨人の最終話を読みました。様々なテーマが盛り込まれた作品だったため、最終回の内容から、色んな解釈ができるものだったと思います。

 進撃の巨人が大きく人気を集めた理由の一つとしては、多くの伏線と解釈の余地を残す表現が多かったことがあげられます。この特徴は、同時期に劇場版で完結を迎えたエヴァンゲリオンにも共通する部分ではないでしょうか。

 今回の記事では巨人とエヴァの対比等を含めて、巨人の最終話から感じた内容を書いていきたいと思います。

進撃の巨人(33) (週刊少年マガジンコミックス)

 

 

巨人とエヴァの違い

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

時代背景の違い

 巨人とエヴァが共通して描いたテーマは、自分と外の世界の関係性についてです。巨人ではまさに壁の外が外の世界を象徴しており、エヴァではエヴァに乗ることや他人との心の壁(ATフィールド)等から自分と外の世界の関係性を描いています。

 この共通するテーマを描きながら、両者が決定的に違うのは、外の世界の深刻さです。エヴァはTV版においては外の世界と関わらないという選択肢すら示した作品でした。外の世界に出ることは恐怖であり危険であり、傷つくことの連続、リスクしかない、そうした内容を繰り返し描いていた作品です。(このあたりの内容は宇野常寛氏のゼロ年代の想像力が分かりやすく解説していますね)

 

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

  • 作者:宇野 常寛
  • 発売日: 2011/09/09
  • メディア: 文庫
 

 これに対し、進撃の巨人はその外との壁が最初から破壊されるという設定になっています。外の世界と関わらないという選択肢は存在しない、そして外の世界は自分の内面の世界をことごとく破壊してしまうというひっ迫感が描かれています。

 こうした外の世界への見方の違いには、それぞれの作品年代の経済状況が大きく影響しています。

 エヴァが放映された90年代はバブルが崩壊したとはいえまだ経済的に余裕のあったあった時代、フリーターという概念が生まれた時期でもあり、社会に選択的に出ていかないということができた時代でした。

 これが進撃の巨人の連載が始まる2000年代の終わりでは、派遣切りや正規雇用の問題、リーマンショックといった経済・労働環境の悪化に加え、人口動態としても高齢化が進み、就業世代の介護による離職といった問題が表面化していきます。

f:id:loki16185:20210422084416p:plain

日経平均株価推移

https://www.dir.co.jp/publicity/magazine/gdp1m80000064uy9-att/20010101.pdf

 

 こうした社会状況の違いが、2つの作品の世界感の差異に影響を与えているのは面白いところです。

 

他人との向き合い方の違い

 これに関連して2つの作品の違いがわかる要素としては、他人との関わり方という視点があります。 

 エヴァはひたすら内面世界にこもる、その反動として外に出る、という描かれ方でした。

 これに対し、巨人では知らない他者は調査しに行くというスタンスを取り続けます。軍隊ではなく、調査兵団という組織をあえて全面に押し出してそれを強調しています。自分の世界が壊されても、外の世界を理解しようとし続けなければ生き残れないという意識が、時代のひっ迫感に裏打ちされているように感じましたし、私個人も世代的に共感する部分が大きかったです。

 

 余談ですが、この巨人のさらに先にある価値感を描いているのが、チェンソーマンのような作品なのかもしれません。 漫画家山田玲司さんのyoutubeでのチェンソーマンに関する解説はとても腑に落ちるものでした。

www.youtube.com

 

解釈の余地の重要性

  巨人の最終話からSNS上でも様々な考察が公開されていますが、このことから改めて解釈の余地が残るということが、物語や創作活動の一番のいいところではないかと感じました。

  進撃の巨人は様々なテーマとメッセージが込められた作品ですが、これを文章にして声高に叫んでも、それは説教やアジテーションにしかなりません。多くの人の心には届かないまま終わってしまうでしょう。

 それはメッセージとして野暮ったくなるというだけでなく、受け手の側の背景や理解力も様々であることが要因です。文章や言葉にできない微妙なニュアンスやメッセージを、解釈の余地を持たせて伝えることで、拒否反応なく多くの人に届けることができる。進撃の巨人SNS上での広がりを見ると、そうした解釈の余地の重要性を強く感じさせるものでした。

 最終話では、アルミンが自分たちのような人間がいたという物語を伝えることが重要だという主旨のセリフを話していますが、まさにこれが進撃の巨人が目指そうとしたことだと思いますし、SNSを見る限り意図したとおりの受け手の反応になっているのだと思います。

 これに加えて、巨人の一番のテーマである「他者を理解しようとする」という普遍的なテーマを現代で伝えるためには、あれだけダークで絶望的なストーリーを繰り返し描かなければいけないほど、読者層の世代の価値観は厳しいものであるというのは、なんとも複雑な気持ちになるものでありました。

f:id:loki16185:20210422112101p:plain

最終話抜粋

 

進撃の巨人最終話のメッセージとは何なのか

 進撃の巨人の主人公はエレン・アルミン・ミカサの3人といっていいでしょう。私はこの3人の外の世界との向き合い方から巨人のメッセージを考えてみました。

エレン

 エレンの外の世界との向き合い方は純粋で危ういものです。「他人が自分の自由を奪うくらいなら自分が他人の自由を奪う」というセリフが何度も出てきますが、このセリフはこの登場人物の行動力と危うさを象徴しています。彼のいう自由とは本当の意味で自由なのかとアルミンが何度もエレンに問いかけるように、エレンのいう自由とは少し稚拙なところがあります。エレンは初めてパラディ島の海岸に出た際に、外の世界が平らでなかったことにがっかりとしたと話していますが、これは外の世界が自分の思った世界でなかったことにがっかりしているわけであり、外の世界を受け入れられてないというスタンスになります。作品終盤ではジークやキヨミが目の前の幸せに気づけなかったことを後悔するシーンを入れているわけですから、作者としてもエレンの思想には問題があると自覚して描いているはずです。

 ただし、外の世界は自分たちを殺そうとしているわけですから、エレンの問題に対して行動する姿勢は必ずも間違っていると否定できない部分もあります。

 とはいえエレンは人口の8割を殺すわけですから、通常の作品では彼は悪役になるのが普通ですが、この作品ではその彼を中心に置き、寄り添うような描き方になっています。つまりこの作品は完全にダークヒーローものといってもいいでしょう。その人口の8割を殺すエレンにも、そこに至る背景がある、その物語を伝えることで、どんな他者でも理解しようとすることが重要であるということを言いたいのかもしれません。

 

ミカサ

 ミカサは幼少期に自分を救ってくれたエレンに好意を寄せているという要素が全面に打ち出されており、過度な依存ともとれる描かれ方です。これは巻末の番外編でミカサがメンヘラのゴスファッション少女として描かれているところからも感じる点です。

 外の世界への向き合い方という点でいうと、ミカサは常に自分を救ってくれた身内であるエレンを中心に動いており、彼女はほとんど外の世界に出ていないといってもいいでしょう。そんな彼女が初めて依存をやめて外の世界に向き合う瞬間がエレンを殺す瞬間であり、ユミルが解放され巨人の力がなくなる瞬間です。このエレンとミカサがそれぞれに自立することで世界が解決するという点では、進撃の巨人セカイ系の要素があったわけですね。

 最終シーンでは鳥によって、ミカサの他者からの承認の象徴であるマフラーがまかれるわけですが、これが鳥という解釈の余地を残した表現になっているのがいい点だと感じました。これまでの描かれ方から見ると、鳥はエレンの意識の比喩ともとれるシーンがあり、最終シーンの鳥もエレンと解釈することもできます。ですが外の世界との向き合い方という点でいうと、ミカサはエレンへの依存をやめたことで、鳥という外の世界から承認を得ることができたとも解釈できるのではないでしょうか。私はそのように解釈したいと感じました。

 

アルミン

 アルミンはアニに言われるように、最後まで優等生な登場人物でした。エレンが個人の自由を優先するのに対し、アルミンは最初から外の世界を知ることを最優先に考えています。その意味では本来ならアルミンがメインの主人公でもおかしくありません。だから彼は調査兵団の団長になるわけです。エルヴィンが世界の答え合わせをしたいのに対し、アルミンは世界を知ろうとする、この二人を比較してアルミンが世界を救うと描いている点が、進撃の巨人のメッセージなのではないでしょうか。

 

 

最後に

 進撃の巨人はダークヒーローのエレンをメインの主人公にした点が、とても特徴的で面白い作品だったと思います。エレンがなぜ世界を平らにしたいという強い衝動があったのか、私はあまり読み込んでいないためはっきりとはわかりませんでしたが、読み手の価値観、2000年代後半からの価値観として、理不尽な環境に対してのやり場のない破壊衝動というのは、多くの人の心の中にあったと思います。私もリーマンショックや震災のさなかに就職活動が重なった世代ですから、このエレンの破壊衝動にはとても共感する部分がありました。そうした彼らが、それでも社会を理解しようとし続けた進撃の巨人という作品は、読み手に希望を与える前向きな作品だったと思います。