悩める僕らは素晴らしい

音楽、サブカル、ラジオ等について、経営的・定量的な視点から書いていきます。

音楽フェスが嫌い

最初に

 あんまり客観性がなく、しかもネガティブな話を書きます。
 でも、恐らく僕と同じようなことを考えている人が他にもいるんじゃないかと思ったので、今回ブログに書くことにしました。



近年のフェスの特長

何故フェスが嫌いなのか
 それを書くには、まず最近の音楽フェスがどういったものか考える必要があります。
1.音楽を聴くという事よりも、音楽を通して誰かと繋がるという「繋がりの社会性」の側面が強い。
2.一体感至上主義による「閉じた文化圏」
1.2に分けなくても、どちらも近い事のような気もしますが、取り敢えず分けておきます。

これは以前から感じていたことですが、音楽ライター柴 那典さんの
「閉じた文化圏」の先へ 〜2010年代の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」論 その2 という記事を読んで改めて感じたことでした。

「閉じた文化圏」の先へ 〜2010年代の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」論 その2 - 日々の音色とことば:

「閉じた文化圏」という言葉は柴さんのブログから丸パクリですw。ごめんなさい。繋がりの社会性を感じる理由は、柴さんのブログにもあったように、フェスで出会った人との集合写真を公開する傾向から。
 で、繋がりの社会性自体は、そんなに問題だと思ってないんですが、それが「閉じた文化圏」に繋がっていくのが嫌だなあと感じるわけです。





閉じた文化圏=承認ゲーム

 ここから客観性を欠くかもしれませんが、僕はこの「閉じた文化圏」というものが「承認ゲーム」に繋がるのではないかと考えています。邦楽ロック好きで一体感至上主義に混ざることができる人間は、それだけで承認してもらえる。その気持ちよさが原動力なのかなと。

 どんなふうに音楽を楽しむか、消費するかは人それぞれ自由なので、良いも悪いもないことですが、僕はここに強く違和感を覚えます。

承認ゲームとはどういった意味か
うつ病増加の一因!? 現代人が陥った「空虚な承認ゲーム」って何だ? - 日刊サイゾー
 この記事の中で、承認ゲームについて触れられいます。
以下記事抜粋

――本書の中で出てくる「空虚な承認ゲーム」とはどのようなものですか?
山竹 例えば、仲間の承認を得るために、自分の本音を抑えて仲間の言動に同調するような態度を取ったり、リーダー格の人間の気分を敏感に察知して、場の空気を読み、絶えず仲間が自分に求めている言動を外さないように気を使う、というような行為がありますよね。価値のある行為によって認められるわけでも、愛情や共感によって認められるわけでもない。つまり、空虚な承認ゲームとは、その場の空気に左右される、中身のない承認をめぐるコミュニケーションのことです。

 この承認ゲームと「閉じた文化圏」をつなげるのは無理があると感じるかもしれませんが、僕は本質的には同じではなかという認識です。一体感を維持するために、アーティストというリーダー格の人間の気分を敏感に察知している時があるのではないか。場の空気を読んで盛り上がっている瞬間があるのではないか。







 僕は音楽が大好きです。プライベートな時間の3分の2はイヤフォンを付けています。でもライブで盛り上がることを強制されるのは耐えられない。アーティストの発言に「?」と思う時もあります。

 さらにここから主観的なことを書きますが、そもそも音楽好きというのは、学校での空虚な承認ゲーム、「桐島部活辞めるってよ」に代表されるようなスクールカーストに嫌気がさした人間達ではなかったのではないでしょうか。音楽とはそうした空虚な承認ゲームからの救いではなかったか。そもそもパンクとは個人主義ではなかったか。
 それなのに、学校ではないこの場所で(フェスで)、同じ承認ゲームを繰り返すのか。音楽好きとは承認ゲームの気持ち悪さを知っているはずではなかったか。
 僕はフェスを見る度にこんな気持ちになります。




 こういった僕の感覚が気持ち悪いと思う人もいるだろうし、僕も一体感至上主義のライブを否定するつもりはありません。

 でも、一体感至上主義のニーズを満たす形でフェスは台頭してきたけれども、それになじめない層にむけた、新たなコンテンツというか、サービスってまだあまりないよなあと思ったのです。一体感至上主義になじめない層は、目立たないだけで、サイレントマジョリティなだけで、実は結構いるんじゃないかと思ったので、今回こんな記事を書いてみました。

ライブではない何か。

僕が気づいてないだけで、もう存在してるんですかね。


音楽フェスの構造についてさらに深堀をした記事↓
loki16185.hatenablog.com