悩める僕らは素晴らしい

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ヴィンランド・サガ13巻までの内容を整理する(前半)

ヴィンランド・サガの13巻を読みました。
今回も非常に見ごたえがあったし、内容的にも一つの区切りになるような、そんな位置づけの巻でした。
内容的にも一区切りついたところで、今までのヴィンランドサガの内容、テーマを整理してみたいと思います。
※2005年から連載していることもあり、一度内容を整理しないと自分でも理解が曖昧になってしまっています。



ここから、wikiのあらすじ解説を参考にしながら各巻を振り返ります

プロローグ(第1話〜第2話)(単行本1巻前半)
11世紀初めの西ヨーロッパ、フランク王国領。この時代、ヨーロッパの海という海、川という川に出没し、恐るべき速度で襲撃と略奪を繰り返す北の蛮族、ヴァイキングは人々の恐怖の的だった。その日も、とあるヴァイキングの集団がフランク領主同士の小競り合いに乗じて包囲されていた都市を瞬く間に落とし、蓄えられていた財貨を残らず奪い去っていった。この略奪はアシェラッドという男が指揮する兵団の仕業で、その中に2本の短剣を武器にする凄腕の少年がいた。その名はトルフィン。今回の襲撃で敵指揮官の首を取る戦功を挙げた彼は、見返りとしてアシェラッドに彼との決闘を求める。
出典:wiki

ここはwikiの解説通りでいいでしょう。まずはヴァインキングとはどんな奴らなのかを見せる内容です。


幼少編(第2話〜第16話)(単行本1巻後半〜2巻)
物語は10年前、1002年のアイスランドにさかのぼる。アイスランドノルウェー王の統治を嫌う人々がスカンディナヴィア半島から移り住んできた土地で、少年トルフィンは父トールズと母ヘルガ、姉ユルヴァとともに貧しいながらも平和に暮らしていた。そこに北海最強の戦闘集団、ヨーム戦士団(ヨムスヴァイキング)のフローキが現れる。トールズは実は昔、「戦鬼(トロル)」の名で恐れられたヨーム戦士団の大隊長を務めていたが、ある日突然、首領シグヴァルディの娘のヘルガとともに姿を消していたのである。フローキはトールズの出奔を不問に付すかわりにイングランドとの戦に参加せよ、という首領の命をトールズに伝える。島民の身柄を盾に取られた彼はそれに応じ、数名の若者と友人レイフとともに本土との中継地点であるフェロー諸島を目指すことになった。これを知った少年トルフィンは、戦いへのあこがれから父に黙って勝手についてきてしまう。
出典:wiki

1巻「みんな何かの奴隷」
一巻の後半では、トールズがハーフダン(地主?)から奴隷を解放するために葛藤するシーンが描かれる。
逃亡した奴隷がこん睡状態から見ざめた際には、「ヴィンランドに行けば奴隷の恐怖から解放される」と励ます。
※ここで初めてヴィンランドという言葉が出てくる。知っている人も多いと思うがヴィンランドとはアメリカ大陸のことである。
その後、大金を積んで奴隷を買い取るも、
ハーフダンからの「鎖を梳いてそいつをどこに連れて行く?」という問い、
トルフィンからの「僕たちの祖先はアイスランドに逃げてきたと聞いた、なら、ここからも逃げたい人はどこへ行けばいいの?」
という2つの問いかけに、トールズは沈黙を返すことしかできなかった。本当の戦士とはどうすべきか、トールズの葛藤が画かれる。

また、アシェラッドが「自覚がないだけで、みんな何かの奴隷である」と話すように、
身分としての奴隷だけなく、金や地位や名誉といったものに「執着」するという意味で誰しもが何かの奴隷であり、
その現実からどうすれば逃れることができるのか、という問題提起を示す巻でもある。

2巻「父はトールズからアシェラッドへ」
2巻では、トールズ一向がアシェラッド(もとをたどればフローキ)の策略に合う中で、本当の戦士とは何かや、アシェラッドの思惑の一端が画かれる。
アシェラッドがトールズに、自分たちの首領にならないかと打診するシーン。あれはアシェラッドにとって自分が仕えるに値する人物(アルトリウス)が現れたからと感じたからか。決して冗談からの発言ではない。
其々の思惑が錯綜する中で、トールズは命を落とすことになる。ここからトルフィンの父役はアシェラッドに移る。
また、アシェラッドは神に誓って約束をする時、「オーディン」に誓う時は約束を守る気はなく、「アルトリウス」に誓う時は約束を守る。
これは後でわかることだが、アシェラッドがデーン人とウェールズ人の混血であり、アシェラッドがデーン人を嫌っているためではないか。
ウェールズ人としては筋の通らないことはしないと決めているのかもしれない。
(デーン人の神(北欧神話の神)=オーディン   ウェールズ人の神=アルトリウス、であるため) 

  
ブリテン編(第17話〜第54話)(単行本3巻〜8巻)
9世紀から断続的に続いていたデーン・ヴァイキングによるイングランド襲撃は、11世紀に至ってデンマーク王のイングランド征服事業に発展し、大王スヴェンの時代に佳境を迎えていた。アシェラッド兵団はヨーム戦士団等と共にこの遠征に参加し、1013年、要地ロンドンの攻略に着手する。当時ロンドンを守っていたのはトルケルという名の巨漢のデーン人だった。アシェラッドは彼に対しトルフィンを差し向けるが、トルフィンはトルケルとの圧倒的な体格差を前に敗北する。短期のロンドン陥落は困難と見たデンマーク王は、4000人の軍勢を残して本軍を移動させ、幼さの残る王子クヌートを包囲将軍に命じる。しかしその後トルケルが攻勢に転じて包囲部隊を敗走させ、王子と護衛のラグナル、神父ヴィリバルドを捕虜にする。この局面を見たアシェラッドは単独でのクヌート王子救出を決意、マールバラ近郊でデーン軍部隊と交戦中のトルケル軍に火計を用いて奇襲し、王子たちを奪取する。その後、アシェラッド兵団はトルケル軍から逃れるため、ウェールズを北上してデーンロー帰還を目指す。しかし、過酷な風雪のため南寄りのマーシアに進路修正を余儀なくされ、宿営に用いた寒村での失策からイングランド軍に発見される。その後トルケル軍の接近を知った兵団は動揺し、大半がトルケル軍に寝返る。アシェラッドは副官ビョルンとトルフィンにクヌート護衛を任せて橇で逃がし、裏切った戦士たちと交戦しているところにトルケル軍が到着。トルケルは反乱軍の申し出を拒絶し、彼らを皆殺しにする。アシェラッドの危機を感じとったトルフィンは馬で戦場に戻り、トルケルと再び対戦する。アシェラッドの協力を得てトルケルを追い詰めるが、そこに覚醒し王者の風格を備えたクヌートが現れて決闘を中断、さらにトルケル軍を帰順させる。その後、クヌート一行はデーン軍の本拠地ゲインズバラに帰還し、1014年、スヴェン王に謁見する。
出典:wiki





3巻「プライドの奴隷、アシェラッドの焦り」
3巻ではトルケルの登場によって、ヴァイキングの考え方が画かれる。
彼らはヴァルハラという、北欧神話における天国のようなところに行くことが人生の幸福だと考えている。ヴァルハラには強い戦士しか行くことはできない。
トルケルの「如何に戦い、如何に死ぬか。それが問題だ。」という言葉に集約されている。
彼らの目指すものは強い戦士だが、その根本にあるのは戦士としての「プライド」である。彼らはプライドの奴隷である。プライドを守るためなら人も殺す。

また、アシェラッドがブリタニアについて話すシーン。彼はラグナロク(終末論)について語る。
「この世界はお老いてきている」「かつてのローマ帝国の栄光は遠い過去になる」と。
アシェラッドが待望するアルトリウスが、このままでは忘れ去られてしまう。
そして、トルフィンに自分はいつか老いて負けるだろうと話すように、自分にも時間は多くないと考えている。
ここはアシェラッドの焦りを画いているのではないだろうか。
だからクヌート救出という危険な賭けに打ってでたのではないか。

また、アシェラッドのセリフ「聞こえないか?ビョルン。ラグナロクの足音が」とはヴァイキングの時代を終わらせるチャンスが回ってきたという意味だろうか。
ラグナロクとは北欧神話における最後の日とされているため。)


4巻「神への疑念」
トルケルから逃げる中で、アシェラッドの出自やウェールズに対する気遣い・想いが画かれる。
またビョルンに指摘されるように、アシェラッドが本心ではトルフィンを信頼しているところも示唆される。(父親役として画かれている)

そして4巻から6巻あたりにかけてキリスト教への疑問と愛について」が大きなテーマになる。
4巻から登場するヴィリバルドという修道士は、常に酒を手放せない。彼は自分で言うように酒が好きなわけではない。つらい現実を忘れたいから酒を飲んでいる。
そのつらい現実とは何か。彼は修道士でありながら神の愛を疑っている。何故神は自分達を救ってくれないのか。その現実に苦悩している。
同様に、指輪を盗んだ少女は、神の監視、罰を恐れている。重荷に感じている。なぜ急に物語に関連性の低いこの少女に焦点を当てたのか。
キリスト教に対する疑念を画きたかったからとしか思えない。作者(幸村先生)はキリスト教に疑念を持っているのだろうか。それとも愛の定義を書くための布石でしかないのか。

5巻「神=父」
ヴィリバルドは5巻でハッキリと神(父)への疑念を口にする。神は本当に我々を見てくれているのかと。それを否定せずにはいられないクヌート。
クヌートは実の父親に自分が愛されていないことに気付いている。しかしそれを認めたくはない。だから否定せずにはいられない。
キリスト教において父とは神の比喩であることが多い)
クヌートの父親役であるラグナルの暗殺は、クヌートの成長の契機になる。(後述するが、ヴィンランドサガでは父親殺しは頻繁に出る表現で、成長や自立を示唆する)
また、アシェラッドは仲間の裏切りにあう中で、母親からの「アルトリウスは必ず帰ってくる、その時はアルトリウスに仕えなさい」という言葉を思い出す。
アシェラッドはこの遺言を守るためにアルトリウスに足る人物をずっと待っていたわけである。

6巻「クヌートの自立、愛の定義」
ラグナルの死を受け入れることで、クヌートは父王と神(父)という2人の父からの自立を決意する。
(37話の表紙はリンゴ。神の教えに背くということを示唆している)
また、愛の定義についても語られる。ヴィンランド・サガにおける愛の定義とは、
徹底した非差別であり、他者への無償の奉仕である。人は生きている限り差別をする。特定の誰かを大事にするのは愛ではなく差別だと。
そのため、人は死ぬことで初めて愛を体現できるという。
この愛の定義は作者の前作、「プラネテス」を読むとより理解できるかもしれない。
愛の定義を知ったクヌートはトールズと同じ目をするようになる。




長くなってしまったのでここらへんで一端前半終了ということにします。

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