ガッチャマンクラウズ最終回 GALAXに倫理観はいらない
ガッチャマンクラウズ最終回見ました。
なんだか賛否両論のようですが、僕は良い内容だったと思いますよ。
それとラストの内容から、2期があるとか、劇場版フラグが立ったなんていう声もありますが、
僕はあの内容で完結していると思います。最初からずーっとあのラストを描くために布石を打っていたと思うし。
では何故そのように感じたか、またメモ的に書いていきます。
※前提として、僕はガッチャマンクラウズは「ネット上でのコミュニケーションを如何に円滑に進めるか」
「ネットを如何に前向きに活用するか」がテーマだと解釈しています。
前回の記事 → ガッチャマンクラウズ 考察 タコツボ化するネット時代への解答 - No Longer Human
※公式HP監督メッセージ抜粋
世界は今、2つの新たな局面に差し掛かっています。
1つ目は、有史以来初めて、僕らの心がネットにより可視化された事。
可視化された心が起こす様々な問題や騒動をどう捉えていいか解らず、個人も社会もただただ戸惑っています。
2つ目は、拡大した僕らの世界はあらゆる分野が細かく専門化され、1人の人間ではその全容を理解する事が不可能になっている事。
それでも僕らは、1人の優秀なリーダーが全てを抱えてくれると盲信しています。
この2つの事象は偶然なのでしょうか?
可視化された僕らの心は、何か良い事にも使えるのではないでしょうか?その事を考え、
『GATCHAMAN CROWDS』という作品を描きたいと思います。
・ベルク・カッツェが倒されていない理由
カッツェが倒されない、消滅しないのは必然だと思います。はじめも「僕はあなたを殺さない」と宣言しているし。
カッツェは悪役としての個人というより、誰もが心に持つ悪意の総体のような、象徴のような存在だと僕は解釈しています。
10話終盤で梅田に、「私はあなたです。なんかわからないですけど、ムカつくんですよ、何もかもが」といったセリフ。
あのセリフにそれは表れています。梅田やその他のクラウズを悪用した人たちの悪意そのものがカッツェ。
ネット上に見える「荒らし」を楽しむ人々の、その悪意の象徴がカッツェ。だからけっして消えることはない。カッツェは全ての人の心の中にあるものだから。
はじめはそれを否定するのではなく、受け入れようとします。だからラストシーンでカッツェをスカーフにしたのではないでしょうか。
恐らくあのラストで表現したいことというのは、「荒らし」をするような人たちは規制や否定ではなくならないということ。(殺さない・殺せない)
自分たちが世界の楽しみ方(ゲーミフィケーション等)をみせることでしか、変えることができないということではないでしょうか。
世界をポジティブに捉え、行動したほうが合理的と思わせるような体験を見せることでしか、変わらないということを言いたかったのではないかと思います。
※余談ですが「荒らし」は無視されるのを一番嫌います。だからはじめは無視せずに反応しつづけていました。他の人間に対する接し方と同じように。
だからカッツェは「君わかってるね」と、「僕の言った事考えてくれてたんスね」と言ったのでしょう。
・はじめが達観し過ぎな件
これは僕の勝手な解釈ですが、多分作者は、はじめを揺らぎのあるキャラとして描こうとしていません。
主人公(ヒーロー)の葛藤なんて最初から描く気がないという感じがします。
時間の少ない1クールのなかで、ネットを通じたコミュニケーションの好例として、
模範解答として示そうとしたキャラクターがはじめなのではないでしょうか。
だから葛藤はないし、常に他のどのキャラよりも革新的な立ち振る舞いをする。はじめの描き方は序盤からずっとこの路線です。
(はじめがメインの第一話のタイトルは アバンギャルド=前衛的・革新的)
・11話総集編について
僕はあの回想・総集編は別に時間稼ぎのためのものではないと思っています。
はじめは模範解答の象徴。それをすこしでも取り入れようと、各キャラが務めたことで、
其々にいい変化が訪れたということを言いたかったのではないかと思います。
はじめへの賞賛ばかりが続いて、教祖のような感じでキモチワルイという意見も他のブログではありましたが、
個人的には模範解答と割り切って見ていたため、そんなに抵抗感はありませんでした。
「可視化された僕らの心は、何か良い事にも使えるのではないでしょうか?」
・GALAXに倫理観はいらない
ダラダラ書いてきましたがここから本題です。
最終話終盤、累がもう一度クラウズを使うことで、人々の善意が体現され、事態は収束に向かいます。
これを見ると、「結局はただの性善説で終わりか」という形に捉えられがちですが、そんなことはありません。
11話のタイトルはゲーミフィケーションです。
ゲーミフィケーションとは何か
ゲームデザイン手法や仕組みを用いて問題の解決やユーザー契約などを獲得すること。例えば、既存のシステムやサービスへの、ポイント性、順位の可視化、バッジ、ミッション、レベルシステムの採用など。
さらにゲームの要素を盛り込むことによって楽しみながら意図せずそれらと関わっていってもらうことが目的で行われる場合もある。
※出典:wiki
人は誰しも心に汚い部分も、きれいな部分も持っています。
ちょっとした仕組みの違いで、つまりゲーミフィケーションによって、簡単に善意にも悪意にも傾いてしまうということではないでしょうか。
カッツェのクラウズでは、悪用することにインセンティブが置かれている仕組みだったので、性悪説のようなクラウズ使われ方になりました。
しかし、累がクラウズを使った時というのは、善意で使うことにインセンティブが置かれる仕組みに設計されていたため、性善説のように見えただけ、というわけです。
(善意で使うことのインセンティブとは、ポイントやランキング制のこと)
累が使っていたガッチャマンの手帳のマークが、カッツェのマーク(ひし形)からバードに変わるのは象徴的なシーンです。
※正直、累のゲーミフィケーションはあまり効果的なものではありませんでしたが。おにぎりアプリは短絡的すぎるww。
実際にそうした仕組みをつくろうとしたらかなり試行錯誤が必要なはずです。
ただ、これだけだと、序盤で累が導入していたクラウズとの違いがあまり見えません。
序盤と最終話での累のクラウズの活用方法の違いは何か。
それは累の個人的な倫理観を持ち込まないことです。
序盤、累はクラウズの使用を一部のGALAXユーザーに限定していました。その限定の基準は累の倫理観です。
その象徴的なシーンは、5話で梅田を説得しようとするところです。
こうした主観的な倫理観の押しつけに対する問題意識は
序盤でもはじめが清音に「電車の席を譲らない人には其々事情があることを想像すべき」と話したエピソードでも示唆されていたことです。
だからその反省として最終話では、累も「どう使うかはみんなに任せる」と宣言していたし、総理も最後に免許制にはしないと言いました。
どんな動機でクラウズを使うかはこの際関係ない。どんな動機であれ、善意でコミットするほうが合理的になる仕組みにしてしまえばいい。
それこそが「可視化された僕らの心」をいい方向に使う方法ではないでしょうか。
累が序盤から口にしていた言葉「プレイザゲーム」。
たとえゲームのような感覚でもそれが結果として善意になるなら、それでいいのではないか。それこそがネットの利用法だと。
序盤でクラウズを上手く使えなかったのは、累がシステムを動かす主体になっていて、ユーザー主体になっていなかったことが要因というわけです。
そしてその解決策としては、基本的にユーザー主体のシステムにし、
無意識にポジティブな使い方をするようなインセンティブを与える設計にするということでしょうか。
※この辺の話は濱野智史さんの著書、「アーキテクチャの生態系」思い出す内容でした。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16215651:ニコ生思想地図 06「『アーキテクチャの生態系』とその後」
最終話のタイトルは「コラージュ」
コラージュとは
ありとあらゆる性質とロジックのばらばらの素材(新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体など)を組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成する芸術的な創作技法である。 出典:wiki
善意を目的としたゲーミフィケーションを設計することで、
人々の中にある良い部分(スキル等)をうまく集めるという意味でのタイトルでしょうか。
また、其々がコミットするから誰か特定のリーダーはいないのだというメッセージでもありそうです。
ここまでの「カッツェ最後」「GALAXの使い方」を考えると、ガッチャマンクラウズは内容的には完結していると僕は思います。
ここからは本当にメモ的に思いついたことを書きます。
・はじめを名前で呼ぶ
最終話パイマンが初めて新人でなく、はじめと呼びました。
他者を先入観で決めつけて接するのではなく、個人として認めて接した。パイマンや清音の心境の変化が見えます。
・累の女装
6話で累がはじめに「厚化粧」といわれた件。
あれは累が本心で話しておらず、自分たちを利用しようとしか考えていないという意味でした。
なのでてっきり、最後には女装をやめて(本心で)、クラウズをつかうことで、ラストとするのかと思ったんですが違ったようです。
(5話で梅田を説得しようとした時は女装ではなかった。あのときのように本心になるのがラストかと思った)
逆に女装のままで使うほうが、変に累の主観が入らないから良いということかもしれません。
・はさみ
ガッチャマンでは、はさみが結構象徴的に使われてきたと思うんですが、
僕は正直どういった意味で使われていたのか、理解しきれませんでした。
単純に創造と破壊の二面性がある道具という意味なんですかね。
JJはいつもはさみを使っていたし、はじめの武器ははさみ。
最後にカッツェがODを倒す時に使ったのもはさみ。
誰かわかる人教えてください、、、
・各話タイトル
とてもストレートなタイトルばかりでした。
すごく乱暴にまとめるとこんな感じか。
1話アバンギャルド=はじめの考えが前衛的、最先端、ネット時代の関係性の解になる。
2話アシメントリー=左右非対称。人は見る側面が変わればいろんな一面を持っている。だからこそ視野を広く。相手を許容すべき。
3話フューチャリズム=未来的な、新たな関係性の仕組みを見せる。それがGALAX
4話キッチュ=アバンギャルドの対義語。カッツェははじめの対照的存在
5話コラボレーション=累とはじめが(ガッチャ)協力を模索する。それだけでなく、仕組みにより、人は協力しあうことできるということもメッセージか。
6話オリジナリティ=ルイに本心を見せよということ?(すいません、ストレートとか言ってますがここはよくわかりませんw)
7話アブジェクション=おぞましいもの。其々の心にある闇。ジョーの本心。パイマンの現実逃避。人はみな他人の不幸を待望している。
8話ジェニュイン=本物。9話との対比でとしてのタイトル。またガッチャマンの本心を示すという意味も?
9話フォージェリー=偽物。カッツェによる偽のX・GALAX。
10話クラウズ=ここはもうそのまま。クラウズを使うとどうなるのか。
11話ゲーミフィケーション=ここは先ほど書いた通り
12話コラージュ=ここは先ほど書いた通り
最後に
1クールで時間が足りなかったことで、いろいろ消化不良的になってしまっている所もありますが、
総じて良い内容だったと思います。
むしろこうした内容は1クールのほうが惰性的にならずにいいかもしれません。
また中村健治監督の次回作に期待したいです。
ガッチャマンクラウズ インサイトについても書きました。↓loki16185.hatenablog.com
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