No Longer Human

音楽、サブカル、ラジオ等について、経営的・定量的な視点から書いていきます。

ヴィンランド・サガ13巻までの内容を整理する(後半)

すいません。
前半を書いてから時間がたちすぎました。
このままだと完全な釣りタイトルになってしまうので、後半を書くことにします。

http://d.hatena.ne.jp/loki16185/20130908/1378641652:前半


7巻「英雄不在」
7巻ではアシェラッドの心情を中心に描かれる。

アシェラッドの生い立ちが語られるシーン。
ここではアルトリウスや祖国への想いと共に、本当は争いがすきではないという部分も示唆されてはいないか。
「美しくない奴らがそこら中から出てきて幅を利かせる。いくら殺してもきりがない」
争いを起こす美しくないヤツを皆殺しにしたいのだから。だからクヌートの「地上に楽園をつくる」という意向にも賛同するのでは。


そして同時に自分にもその美しくないデーン人の血があることに葛藤していることも見て取れる。
クヌートに「何故自分が王になろうと思わない?」と聞かれた際に、「自分はただのヴァイキングでしかない」からと答える。
ビョルンとの決闘時「死んだ仲間たちも、自分自身でさえも。さびしくないのか、何もかも拒んで」と言われるシーンでも、
アシェラッドが自分のデーン人の血を受け入れられていないところが見える。
本心では祖国の復興と、争いをなくすことを望みながら、それを実現するには暴力を使うことでしか実現できない自分。(父殺し等)
この葛藤があるからアシェラッドは自分が王になる資格がないと思っているのではないか。
47話のタイトルは「英雄不在」。アシェラッドは自分がアルトリウスになるつもりはない、なる資格がないと、この時点ではおもっている。

しかし7巻ではその感情に変化が見えないか。
アトリに別れを告げる時、ヴァイキングをやめることを条件に路銭を渡す。
強く憎んでいるならそんなことはしないはずなのに。
同様にビョルンとの決闘でも「おまえはたった一人の友達だ」と言ってから安楽死させる。
完全な本心ではなさそうだが、それでも本当に憎かったらそんなことは言いもしないはず。
この心情の変化が、アシェラッドの「英雄復活」につながるのでは。





8巻「end of prologue」
8巻はアシェラッドのスヴェン王殺しが一番の大きな内容。
スヴェン王により、祖国ウェールズとクヌートを天秤にかけ、選択を迫られる。
その両方を守るためにアシェラッドはスヴェン王を殺す決断をする。
52話タイトルは「英雄復活」。ここでアシェラッドは、自らをアルトリウスと名乗る。

神ではない誰かがやらなければいけない、アルトリウスという役を自分が担うことを決意する。
母親が愛した祖国を守るという役を。

また、スヴェン王殺しの現場に駆けつけるトルフィンを制する場面。
これは言うまでもなく、アシェラッドがトールズとの約束を守っていたからの行動。(アルトリウスに誓って)
アシェラッドはトルフィンのカタキとして、トルフィンの生きる理由としての役割を担っていた。

アシェラッドが死んだあとトルフィンが暴走し、取り押さえられた後、
復讐の象徴であるトールズのナイフが虚しく落ちているカットは象徴的なシーン。

そして8巻にしてようやくプロローグの終了。なんて長いプロローグなんだww





農場編に行く前に登場人物の関係性を整理
ここまでは完全にアシェラッドが主人公で話が進んできたが、
アシェラッドという登場人物をここで一度深く掘り下げてみたい。

今までの内容を振り返ると、アシェラッドは矛盾した二面性のある人物である。
それは混血ということに加え、考え方の上でも同様である。(だからこそ魅力的な登場人物)
それに加え後半の主人公はトルフィンとクヌートの二人。
彼らは物語が進むにつれて考え方の違いが明らかになる、対象的な二人である。
その違いはアシェラッドの二面性を其々に継承しているものではないか。
そこで彼ら3人の一連の関係を無理やり表にしてみた。

この表を見て「この項目違いますやん!」と思う部分もあると思うが、(自分でも思う)
整理するために強引に当てはめてみた。
やはりこのトルフィン・クヌートの関係は、プラネテスでのハチマキ・スミスの対比と重なる。
ハチマキは他者と関係することを求めた、同様にトルフィンは後にエイナルと共にヴィンランドを目指すことになる。
クヌートは一人での戦いが続く。ロック・スミスと同様に。また、目的の為には手段を選ばない。

父殺し・キリスト教への姿勢・暴力、の3つの項目は其々連動する。
父殺しはキリスト教で神に背く行為である。またキリスト教は「汝右の頬〜」で有名な隣人愛の考えであり、非暴力である。
後のトルフィンの行動はマハトマ・ガンジーの非暴力に通じるものがあり、ガンジーキリスト教を信仰していたといわれている。
トルフィンは後にキリスト教に興味を示すシーンがある。

前作プラネテスでのハチマキ、ロックスミスの関係を考えると、
彼ら二人は考え方こそ違うものの、特に対立することはなかった。
また、どちらが正しいとも作者は訴えようとはしていない。
その路線は、今回も同じなのか違うのか。


結局のところプロローグの内容をとは
①ヴァイキングの考え方、時代背景の説明(プライドの奴隷)
②トルフィン(ハチマキ)、クヌート(スミス)の今後を画くための布石、動機の根拠としてのエピソード

の2つがメインなのかもしれない。(アシェラッドの内容もこのための布石)

農場編、9.10.11.12.13巻

農場編でのテーマは2つ。
①金による支配
②暴力に対する姿勢

では①金による支配から考える。

農場編での主要人物ケティルは特別落ち度はないように思えるが(奴隷も一見人道的に扱う)、最終的にはクヌートにより今の暮らしを奪われることになる。
それは何故か。
ヴァイキング編ではプライドによる支配・暴力が画かれたが、
農場編では金による支配・暴力が画かれているのでは。
ケティルは他人が信頼することができない人間。その為、金による支配を望む。
他人が信頼できない為、今よりもっと金を欲し、事業の地盤を固めようと奔走している。
しかしそれは他者をもっと支配したいという野心に繋がる。
彼のような野心は、最終的には争いを生むことになるという事を示唆していたのか。
その争いは力の強いものが制するものであり、クヌートによってそれを思い知らされることになる。
またその際、一見奴隷に対し人道的に振舞ってはいたものの、奴隷の心情は理解していなかったことがわかる。


②暴力に対する姿勢
アルネイズは暴力にどう立ち向かうかを描くために必要だった登場人物では。
トルフィンは農場編で暴力との決別を決意する。
しかし暴力をひたすらに避けようとするアルネイズは、最終的に命を落とすこととなる。
暴力から目を背けるだけでは解決にならない。
暴力に溺れることなく、しかし逃げずに対峙するにはどうすべきか、これが本当の戦士へと繋がるのか。

アルネイズが死にゆく中、トルフィンは希望はヴィンランドにあると語りだす。
トルフィンが自分の中で一つの答えを出したことを象徴するように、
厚く覆われていた雲から光が差し始める。
この回のタイトルは(本当の)戦士誕生。



ここまでの内容を考えると、今後の展開は
①トルフィン、クヌートの方向性
②暴力・支配に対する姿勢





・感想
正直全然きれいに整理できませんでした。
書くたびに、「こうかもしれない、ああかもしれない」とブレ放題。
僕がポンコツだからというのももちろんですが、
幸村先生は書きながらテーマを練るタイプの人なのかもしれないと感じました。
アップロードするのを躊躇いましたが、ここまで書いてしまったので載せることにしました。

ここからは整理でもなんでもなくただの所感なので興味のない方はスルーしていただきたく。


この作品を通してのテーマを一つ上げるなら、「本当の戦士とは」でしょう。
僕はこの本当の戦士とは「他者を信頼する」という事ではないかと考えています。
(「信頼」なんて言葉にすると何か思考が浅い感じがしますが)
この作品に登場する人は皆何かの奴隷です(金・権力・プライド、現代社会でも同じですが)。
他者を信頼できないから金・権力・プライドに固執する。
自分に自信がないから他者を信頼できない。
他者を信頼し、自己顕示(暴力等)する必要がないほど確固たる自信を持っている。
そんなところが「本当の戦士」なのかなと。
ただ、「信頼」だとプラネテスで田辺が示した「愛」となんかズレるきがするんですけどね。

この他者信頼=自己の自信 という考えは、最近cakesで連載が終了した
「嫌われる勇気」 岸見一郎 / 古賀史健  を読むとよくわかります。

https://cakes.mu/posts/2791:cakes 嫌われる勇気 岸見一郎 / 古賀史健


また余談ですが、この信頼とヴィンランド=アメリカという2つの要素で、
山岸 俊男さんの著書「安心社会と信頼社会」を連想しました。

まあ、ヴィンランドサガは未完結の漫画なので、今後の展開を見て、またいろいろ考えてみたいところです。

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