最初に
今回もまた前回から更新が空いてしまいました。
今回はプチ鹿島さんの著書「教養としてのプロレス」について、感想を書いていきたいと思います。
感想の書き方としては、各章ごとに本書の内容とそれに対し感じたことを箇条書きにし、その後、全体を通しての雑感を書きたいと思います。
※前提として、僕はプロレスに関しての事前知識はほとんどありません。
※僕は個人的にプチ鹿島さんが出演する東京ポッド許可局を強く愛好してるため、文章内には度々許可局に関する内容がでてきます。
※本記事の書き方 ・=本書の要約 ★=ブログ管理人の雑感
目次
プロレスは誰でも体験できる
半信半疑力を鍛える
人生の答え合わせができる
プロレスで学ぶメディアリテラシー
引き受ける力を持つ
差別に自覚的になる
人の多面性に気づく
無駄なものを愛す
胡散臭さを楽しむ
どんな時もユーモアは必要である
敬意をもって「下から目線」でいる
時代の転換はプロレスで確認できる
ファンタジーはリアルの上位概念である
SNS時代をプロレス脳で生き抜く
マイナーに安住するなかれ
時に、勝利に固執する
プロレスも人生も「受け身」が重要である
各章ごとのまとめと雑感
①プロレスは誰でも体験できる
本書の前半、特に一章目は鹿島さんのプロレス愛を感じる章である。
②半信半疑力を鍛える
- プロレスの楽しみ方の極意はガチではなく、「半信半疑」にある。それに関連するエピソードとして半信半疑の精神はオウム真理教入信を防ぐとしている。
- オウムに入信の原理は、生真面目による「純粋?傲慢?暴走」
- プロレス団体UWFの「強さへの原理主義」とオウムにある「生真面目さ」「学生運動の内ゲバ」などの共通点を確認し、プロレス全体には、そういったものを「可笑しさ」に変える強度があるという。
- 学生運動、UWFは頭でっかちの内ゲバの教訓を作った。それを見ていた著者はオウムに入信しなかった。その教訓が、半信半疑という強さ。
- この「半信半疑」は新た物へのスタンスでも応用可能。知らないものをすぐに否定せずに行間を読む余裕と楽しさが大事。
★オウム、学生運動の内ゲバなど、こうした活動の狂気はすでに各所で論じられている内容でもある。
評論家宇野常氏はこれらにはに魅力的な「物語」があると表現した。人はこうした魅力ある「物語」に弱く、常に渇望している。その意味で、UWFとは、コミットを誘発する魅力的な「物語」だったのかなと感じた。
★この半信半疑はまさに現在鹿島氏が行っている、おやじジャーナル批評に通ずるものである。まさに鹿島さんが実践していることであると思う。一見世間的に軽視されているものに対し、ただツッコミをいれて個蹴落とすのではなく、その対象が世に残っている意味を探してみる。それが著者が出演するラジオ番組「東京ポッド許可局」でも繰り返し出るフレーズ、行間を、裏を、社会を読む、ということではないか。
この精神が根本にあるからこそ、鹿島さんの批評にはいつも愛があるなと感じるのだと思った。この精神はプロレスが持つ独特な特徴ではないか。
③人生の答え合わせができる
この章も鹿島さんのプロレス愛を感じる章。
④プロレスで学ぶメディアリテラシー
- プロレスという活字媒体が豊かなジャンルを掘り下げたからこそ、今の著者のメディアリテラシーはある。
★プロレスという、当事者が必ずしも本心を語らない媒体を観察しているからこそ、
行間を読み、複数のメディア、見方を比べ、メディアリテラシーを高めていったのかもしれない。
★その他、プロレス専門誌の利権構造、東スポ、週刊現代等の複数メディアに関して鹿島さん独特の語り口調で論じ、複数メディアを読み解くリテラシーの重要性に関して書いている。
⑤引き受ける力を持つ
- 人気のあるジャンルや、独自性の高いジャンルは、アンチが多いものである。そうしたジャンルでは、アンチの存在をどう受け止めるかが重要になる。正面からアンチにさらされる、アンチを引き受ける点で、AKBとプロレスは共通点がある。著者は小林よしのりにその共通性を確認する。
『小林よしのり vsプチ鹿島』大盛況で終了しました。 | プチ鹿島ブログ「俺のバカ」
⑥差別に自覚的になる
- プロレス観戦とは、差別と紙一重であるとする。レスラーの体格的な特徴、背の高さ、逆に背の低さなどに観客は歓喜する。
- 人を見て楽しむとき、差別的に見るからこそ楽しめる瞬間がある。日本ではオネエキャラがもてはやされる。オネエキャラとはある種、最初から「一段下がって」いる存在だけに差別に強い存在である。見るひとは自分たちとは関係ないと思って見れるからこそ、差別的に楽しめる物である。そのオネエが人気という差別性。
- プロレスファンは、その差別性の強いジャンルだからこそ、差別的な自らの視点に自覚的である。
★この章の内容も、自らの負の部分に自覚的になり、その点を否定しないという、鹿島さんのスタンスが表れていると感じる。プロレスはすでに様々なツッコミにさらされてきたからこそ、そのファンにはタフさが備わっているのかもしれない。
⑦人の多面性に気づく
鹿島さんのプロレス愛章。
⑧無駄なものを愛す
- 知の巨人、立花隆は「「プロレスとは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低俗なゲーム」と切って捨てた。「低俗」とされ評されることのあるプロレスを好きという後ろめたさ。
しかしの立花が言う無駄なものを愛でる行為が必要ではないのか。「レスラーとは、水をタプタプに入れたコップを全力で運ぼうとする人種」である。
★「レスラーとは、水をタプタプに入れたコップを全力で運ぼうとする人種」等は鹿島さん独特の流石と思う文章。
⑨胡散臭さを楽しむ
- 力道山プロレスとは「見る側が、怒りと喜びを熱く爆発させる力道山プロレスそのものだ」という。
これをWBCの執拗な日韓戦と共通すると論じる。WBCは世界一を決めるには興行臭が強すぎて胡散臭い。このイベントに乗っかってもいいのか。しかしいざ日韓戦がはじまれば盛り上がる。大会の公式性の是非よりも、目の前の日韓戦という因縁の「ドラマ性」に盛り上がってしまう。
これらの証拠として、第三回WBCでは韓国が早々に敗退し、どこかのんびりとしたWBCとなってしまった。
★プロレスとは、まさにこうした作られた「胡散臭さ」に没入し楽しんでしまえるか、というジャンルなのだと思う。
★また、これは文化系トークラジオlifeの速水健朗氏企画の日韓WC論と非常に共通する話であると感じた。何かを盛り上げる際に、プロレス的文脈「ドラマ性」は非常に効果的であるということ。腑に落ちる話である。
文化系トークラジオ Life: 2012/09/07「Life×フットボールサミット〜日韓戦とナショナリズム」 アーカイブ
⑩どんな時もユーモアは必要である ※この章はプロレスの本質に迫っている
- 自分自身を風刺するのがユーモア(徳が高いということ)自分を笑って見せる姿勢。他者にツッコミを入れるのがウィットこの意味においてプロレスファンにはユーモアがある。
- なぜプロレスはユーモアか。プロレスは八百長問題に常にさらされてきた。たとえ八百長だとしても、それを好きな「どうしようもないボンクラである自分」を笑うという強度をプロレス好きは持っている。※ここの内容は第二章と共通。
★「自分の不完全さを自覚する」ことを大人力と呼ぶという。これは東京ポッド許可局を聞いていて強く感じる点である。
ここはサンキュータツオ氏と他2人の間にあるものといえる。タツオ氏はまだウィットな感がある。そしてマキタスポーツ プチ鹿島の両氏はユーモアがあるから、安心感がある。マキタ氏、鹿島氏は自らの身体的特徴にコンプレックスを抱えてきたと、自分でも語っている。その苦悩が、この両氏の「徳の高さ」に繋がっているのではないか。
- 笑ってはいけないあさま山荘
鹿島さんが愛してやまない「昭和の壁ドン」ことあさま山荘事件。この時の連合赤軍の総括と自己批判はガキの使い、「笑ってはいけないシリーズ」のリアル版であるとする。笑いのない笑ってはいけないシリーズは、壮絶なリンチであり、内ゲバである。その脆さ、弱さは、笑う「余裕」がなかったことである。
★真剣になればなるほど息苦しい。自分も資格試験の時、絶対に合格するのだといきごむあまり、ノイローゼになった事を思い出す。適度な余裕が、逆に良い結果をもたらす。
連合赤軍は「笑いすら許されぬ余裕のない狂気」といえる。吉本隆明氏もどこかで、「良いことしか、健康的なことしか言わない人々が台頭してくるようになったら、戦争の危険性を危惧したほうが良い」という趣旨の事を言っていたと記憶している。理想論を厳格に目指すと、人は狂気に向かうのだろうか。
このあたりに着眼点をもってくるところが、ライターの速水健朗氏ととても共通している。ぜひ対談してほしい。
また、学生時代金城一樹原作の映画「Go」を見た当時、作中に登場した総括という行為の意味がよくわからなかったが、今ではよくわかる。この映画の中での総括は、まさにリアル笑ってはいけないシリーズといえる。
⑪敬意をもって「下から目線」でいる
- 「笑う余裕」とはともすると、嘲笑するいう雰囲気に近づいてしまう。子蹴落とす笑い。そうではなく、あくまで精一杯没入したうえでの笑い=敬意の下から目線。それはすれた某ネット掲示板的面白がりかたではない。決して子蹴落とす形ではない、楽しみ方、笑い。その実例をあげていく。
剛力彩芽、酒井法子、リーガルハイ、女王の教室、東出昌大(許可局でもあったリンク貼り付け)等。
⑫時代の転換はプロレスで確認できる
★一つの物を掘り下げると、社会批評ができるのは、どれも同じ。サブカルも同様。
⑬ファンタジーはリアルの上位概念である
プロレス愛
⑭SNS時代をプロレス脳で生き抜く
プロ愛
⑮マイナーに安住するなかれ
プ愛
⑯時に、勝利に固執する
愛
⑰プロレスも人生も「受け身」が重要である
※すいません、このあたりで文書を書くのが疲れてきました。
全体を通しての、鹿島さんが訴える教養としてのプロレスの定義。
本書での教養としてのプロレスの定義を自分なりにまとめてみました。
- プロレスの楽しみ方の極意はガチではなく、「半信半疑」にある。それゆえの柔軟性と強度。なんでも白黒つけずにコミットしてみる。それは無駄なものを切り捨てずに興味を持ってみる余裕でもある。胡散臭さを楽しむ余裕でもある。ユーモア、徳の高さという余裕。
- 一つのメディアに踊らされない、メディアリテラシー
- 自らの負の部分を認識し、受け入れる
人は誰しも差別的である、その自分に自覚を持つ - 嘲笑的に楽しむのではなく、あくまで夢中に、没入し楽しむことが、いわば礼儀。
全体を通しての雑感
- 基本的に前半は鹿島さんのプロレス愛がわかる内容といえます。部分部分のセンテンスは普段ラジオなどでも語っている鋭い視点が入っており、流石と思わせる文章は数多くあります。しかし、マキタスポーツ氏ほどの構成力、文章力はなく、プロレス愛で突破している愛らしい文章でもあると感じました。
- 連載を中心に本にしているためか、重複する内容、章をまたいで共通するテーマがいくつか存在します。このあたり、テーマごとにセンテンスを集約していったら、マキタスポーツの著書「すべてのJPOPはパクリである」のように非常に読みやすい本になったのではないかとも思います。
しかし、そこを立花隆のように合理的に処理せず、あえてそのままの状態で出すことが、プロレス好きの鹿島さんならでは、その行間なのかもしれません。鹿島さんの人柄がみえる、良い読書体験でした。