音楽フェスの「閉じた文化圏」が安易な政治発言を誘発させるのではないか
3年前のちょうど今頃、僕は「音楽フェスが嫌い」というとてもネガティブな記事を書きました。奇しくも3年後の夏の終わりに、またしてもネガティブな記事を書こうと思います。
http://01.gatag.net/0012039-free-photo/
はじめに 音楽に政治を持ち込むな論争とは
もう少し前の出来事になってしまいますが、音楽に政治を持ち込むなという論争がありました。事の概要に関しては、下記のハフポストの記事の冒頭を引用させてもらいます。
毎夏恒例となった野外フェス「FUJI ROCK FESTIVAL」(フジロック・フェスティバル'16)に、学生団体「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)」の中心メンバー奥田愛基さんやジャーナリストの津田大介さんらが出演すると発表され、ネット上には「フジロックに政治を持ち込むな」「音楽の政治利用」などと批判の声が上がった。
これに対し、有識者からは「いくつものNGOやアーティストがさまざまな主張をステージで繰り返してきた」「民主主義そのものを批判することこそがロックである!」「表現の自由を守りたい」など様々な声が上がっている。
フジロックへのSEALDs参加を切っ掛けにこの論争は始まったわけですが、それに対して書かれた多くの記事は「そもそも音楽とは政治的なものであり、このような主張は今さらな内容である」という趣旨の物でした。
この国に政治を持ち込むな! 炎上と政治の新しい関係【第92回】|すべてのニュースは賞味期限切れである|おぐらりゅうじ/速水健朗|cakes(ケイクス)
「音楽と政治」論争の不毛感 「EXILEは?」欠落した体制側という視点 - withnews(ウィズニュース)
#音楽に政治を持ち込むなよ タグに関する津田大介氏のツイート - Togetterまとめ
しかし僕自身は以前から、音楽ライブ・フェスでミュージシャンが発言する政治的な発言には違和感や疑問を持つことが多くありました。「なぜ音楽を聴きに来た場所で、こんな独善的で一方的なイデオロギーを共有させられなければならないのか」と。今回の論争の根っこには、単純にSEALDsがフジロックに参加したということだけでなく、ミュージシャンが行う安易な政治発言に対するアレルギーがあったからではないかと考えています。そして、そのことについて書かれたブログや記事は多くないように感じました。
そのため今回は「音楽に政治を持ち込むな論争」とは切り離して、ミュージシャンが行う政治発言(反戦等を含む)に対するアレルギーはなぜ生まれるのかに関して考えてみます。
フェス・ライブに行く人の動機と、閉じた文化圏を生み出す構造
上記の問題を考えるにあたり、フェスやライブに行く人はそもそもどのような動機で行くのかを考える必要があります。僕は大きく分けて下記の4つに分けられると思います。
- フェス・ライブをその他多数のイベントと同列に捉えてテーマパーク的に楽しむ
- 出場ミュージシャンの音楽性を楽しむ
- 出場ミュージシャン本人の人間性そのものを楽しむ
- 音楽を通じて誰かと繋がりたい「繋がりの社会性」的に楽しむ
1.2の層はイベント性・音楽性という専門性にメリットを感じて参加している層であるため、ミュージシャンが言う政治的な発言に関してはフラットな視点でいるはずです。そのため、発言の内容に説得力・強度がなければ違和感を感じるでしょう。
しかし3の層は、ミュージシャンの人生観やイデオロギーまで肯定していることとが多く、多少発言内容に説得力がなくても許容してしまうケースが多いのではないでしょうか。また、4の層は周囲の承認を得るために、発言内容に説得力がなくても許容してしまうでしょう。
こうしたことは、3年前に書いた記事で触れた「閉じた文化圏」的、もっと言えば「承認ゲーム」的傾向といえます。
つまり、今回僕が主張したいのは、3.4の層が多く参加するフェス・ライブは「閉じた文化圏」的傾向が強く、ミュージシャンに対する評価の目線が甘くなるため、安易な政治的発言を誘発しやすい構造があるのではないかということです。
WOWOWぷらすと 1000回記念での一幕
サブ糞野郎を狙い撃ちにする番組、WOWOWぷらすとでも、ロックフェスに政治を持ち込むな論争の話に触れられています。(1時間28分頃より)
【WOWOWぷらすと】1000回記念 2021年のエンターテインメント|WOWOW動画 【旧:W流】
番組内では、下記のような内容の議論がなされており、僕も非常に共感する部分がありました。
- 速水健朗氏:今回の「音楽に政治を持ちこむな論争」で繰り広げられたミュージシャンによる政治的発言には共感できないものが多かった。
- 宇野維正・速水両氏:とりあえず投票に行こう、投票率を上げようという主張には、社会的意義に結びつく直接的な根拠はなく、個別の利害に偏った固定票を薄めるという効果しかない。
- 西寺郷太氏:政治もしくは選挙の問題を正面から論じるのであれば、公明党の問題に言及しないことは不可能である。政治発言をするミュージシャンにどれだけ公明党に触れるものがあるのか。
ミュージシャンの政治的発言がすべて説得力に欠けるというわけではないし、深い知識をもっているミュージシャンも多くいるのは承知しています。
しかし、閉じた文化圏には、極端に言えばナショナリズムや宗教性といった側面が少なからずあり、一度その文化圏が構築されるとミュージシャンに対する評価が甘くなるという構造があるのではないかと思います。そしてその構造が、安易な政治的発言を助長するのではないでしょうか。
今回の記事で主張したいのは、
- 先に示した1.2の層は、安易な政治的発言には違和感を感じやすい事
- 3.4の層が多く参加するフェス・ライブでは安易な政治的発言を誘発しやすい
ということの2点です。そのため、ミュージシャンが行う政治的発言に説得力や強度があれば、別に誰も違和感は感じないでしょうし、僕自身ミュージシャンの政治的発言に「なるほど、確かに」と思ったことももちろんあります。
ロックフェスと戦争反対
「閉じた文化圏」という言葉を使った柴那典さんのブログでは、2年前上記リンクのような記事が掲載されていました。
確かに「戦争反対」という言葉に、正直、あんまりリアリティを感じない人は沢山いると思う。大上段からの言葉だし、教条的だし、「遠い」感じがする。すでに起こってる争いを個人の力で止めることは難しい。こんがらがった憎しみの連鎖をほどく魔法の言葉は存在しない。残念ながら。
ただ、僕が思うのは、こういうこと。ミュージシャンがフェスの場でそういう発信をするのは、とても意味があることだと思う。
なぜか。戦争というのは、誰か偉い人が始めるものじゃなくて「戦争を求める心」という、いわば空気のようなものに突き動かされて始まるものだと思っているから。
太字部分は僕も全く同じ意見です。でもその危険な空気を作り出すのは、他でもない閉じた文化圏的ナショナリズムであり、それによってもたらされる思考停止ではないでしょうか。
僕はサッカー観戦にあまりいかないので実感はあまりわからないけれど、たぶん地元のサッカーチームを応援するということも、きっと、そうなんだと思う。
僕が地方出身者だから強く感じるのかもしれませんが、地域性に根付いた活動というのは少なからずナショナリズムの側面があり、それは時に驚くほど外部に対して排他的になるという危険性があるものと考えています。捉え方の違いかもしれませんが、音楽やナショナリズムというツールはうまく使えば便利な反面、その使い方によっては危険と隣り合わせなため常に試行錯誤して考えていくことが重要だと思います。
そうした点で、今の一体感至上主義・閉じた文化圏に対する何らかのカウンターというのは必要だと考え、このようなネガティブな記事を掲載するに至りました。
※誤解のないように書いておくと、柴那典さんのブログはいつも拝読しており、とても好きなブログです。